1970年に渋谷にOPENして以来、今年で40年目を迎えることになりました。
これまで長いあいだ、多くのミュージシャン、アーティスト、そして観客の皆様、関係者の皆様に、この場をご支援ご支持を頂き大変感謝しております。
さて、突然ではありますが、40周年を機にアピアを移転することに致しました。現在の建物は老朽化し取り壊しの予定があり、また渋谷の街があまりに様変わりして我々が目指す文化を育む地としては喧噪とリスクばかりが高くなり相応しくないと、様々な候補地を捜して参りましたが、現在の渋谷区から隣の目黒区へ移転することに決定しました。40年目の決断です。これから先40年を考えての決断です。この地に腰を据えて、新たな光を発信して参ります。
愛して頂いている現在の場が無くなってしまうのは、皆様にとっても我々スタッフにとっても大変寂しいのは同じですが、これは新たな旅立ちであり、より良い場創りを目指してのスタートでありますので、どうかご理解の上これまで以上のご支援を賜りますようスタッフ一同、心よりお願い申し上げます。
【OPENまでの移転のスケジュール】
6月は移転直前17日間連続イヴェントを開催。40年間この場で活動してきた多くのミュージシャンが出演します。6月21日(日)を最後日として渋谷店を終了します。
APIA FORTYは7月5日(日)よりオープン致します。新しいAPIAに是非ご期待下さい。そして新しい"場"創りに是非ご参加下さい。設計や工事で店の器は出来上がりますが、"場"を作り上げるのはそれからがスタートです。現在のアピアの独特な雰囲気が40年かかって出来上がってきたように、そこに集うミュージシャンや観客や多くの人のエネルギーによって、生きた"場"が生まれ育っていくものです。その意味ではゼロからのスタートのつもりでスタッフ一同頑張って参ります。どのように変容・進化していくか大いにご期待下さい。
2009年7月5日 NEW OPENオープニングLIVE
友川かずき+石塚俊明+永畑雅人


【アピアマスター 伊東哲男】
1970年5月この地にオープンして以来、今年5月で40年目に入る。長かったのか早かったのか走馬燈のようにいろいろな事が思い出され実感は捕らえどころがない。凄いスピードで駆け抜けていった青春もあれば、一進一退しながら明日を手探りする冒険者たちもいた。ともかくオープン当時21才だった私が61才になったのだから、40年という歳月が流れたのは確かなのだ。
渋谷の街も、新宿の歓楽街と比べて静かな若い学生の街だったが、今はすっかり様変わりした。いい意味でも悪い意味でも、変わってしまった事もあれば、変わらぬものもある。それにしても、老朽化した。私ではなく、アピアのビルである。
もうこれ以上は限界かと感じたのは2〜3年前から、さらに渋谷駅周辺の再開発計画が動き出した。ここに長く居られないのなら、40周年を機に移転しよう、私のことだが、体力のあるうちにと、また現在の強力なスタッフの力を結集できる今でしかないと昨年から候補地を捜し始めた。捜しているうちに渋谷を離れる決意が生まれた。アクセスが良いというだけで、高額すぎる賃料を賄うために大幅な値上げを余儀なくされ、出演者や観客に負担をかけ、ブッキングに於いても経営主義に陥るようになるならば、渋谷へのこだわりは棄てよう。確かに渋谷は人で溢れているが、一人としてアピアの観客に流れてきた者はいないのだし。葛藤したが、いままでの40年よりこれからの40年のために最適な場所を捜そうと。それは渋谷を離れても今より魅力ある場を生み出せるという自信でもある。
40年前、力も才能も金もなく、思い入れだけで出来なかった事がいっぱいあった。今なら原点に戻って出来る気がするのだ。そしてそれは碑文谷にあった。これからの40年を航海できる船として最適な場所。嵐の日も暗い夜も乗り越えられる新しい船造りがまもなく始まる。明日に向けて宝物を運ぶ船だ。
新しい船を動かしていくのは、私ではなく、若い船乗りたちと、アピアで活動するミュージシャンと観客であるあなたたちだ。これからの40年は安泰ではない。温暖化と食料危機をはじめ想像するに難しくない未曾有の困難が待ちかまえている。この船が人々にとって大きな勇気となることを祈るのみだ。
【友部正人】
はじめてミチロウと会ったのがアピアだった。その頃からミチロウはアピアの出演者だったのかな。
それからアピアの調理場にいたミキちゃんや、ぼくの奥さんのユミ、バイオリンの令たちとアピアバンドを作った。1978年のことだった。映画を撮っていた村山くんはプリントごっこを使って折りたたみのパンフレットを作ってくれた。何もかもが楽しい日々だった。最後にぼくがアピアでライブをしたのは多分1986年。
ああ、久しぶりにあの頃の歌を、一人で歌ってみようかな。
【 遠藤ミチロウ(ex.STALIN)】
「渋谷アピア」が40年の幕を閉じ、「アピア40」となって生まれ変わる。まったく突然やってきたもんだ。いろんなことが突然やってきて大切な思い出がいっぱい残っていく。
32年前東京にやってきて、初めて歌い出したのがアピアだった。最初の出会いがアピアだったことはボクの歌人生にとって最大の幸運である。マスターとママさん、そしてスタッフの皆さんほんとうにありがとう。出来損ないのボクを見放さず 叱咤激励してくれたことが、今でも歌い続けれてる力の源です。
新しいアピア「アピア40」が更なる可能性を生み出す無限の空間になるよう、ボクもふんどしを締めてかからねば。最後にもう一度「渋谷アピア」ありがとう!!!
【知久寿焼(ex.たま)】
アピア。渋谷のオアシス。でしたね。ぼくは人前で歌い始めた16歳、高校二年の夏休み前にギターとハモニカつれて、みんなが順番に歌える新人ライブみたいなのに出かけたんでした、たしか。
いま44なのでもう四半世紀以上前になっちゃうのか、、、。
レギュラー出演者ではなかったのに、あの場所の最後にお誘いいただいてとってもうれしい。ありがとう!
【犬神凶子(犬神サーカス団)】
初めまして。赤猫・ヴォーカルの犬神凶子です。
今回このイヴェントの出演が決まって、目茶苦茶嬉しいです。マスターが覚えていてくれたことも嬉しい!私たちが初めてアピアに出たのは今から10年くらい前で、当時は「情凶劇場」というユニット名でした。マスターにアドバイスしてもらったり、写真を撮ってもらって「あたふた」に載せてもらったり、本当に良くしてもらいました。今でもこのユニットを続けているのは、アピアでの経験が大きく影響していると思ってます。移転後のアピアにも出れたらいいなーw

6月は移転直前17日間連続イヴェントを開催。
6月のスケジュールはコチラから!

新名称 APIA FORTY 40 (アピア40)
これまでの40年の歴史を土台に、これからの40年を生きる新しい船造りを目指すという想いを込めて、" APIA FORTY
"と名付けることにしました。
オリジナルカラーはマリンブルー!! 40年後といえば、2050年、ちょうど21世紀の半ば折り返し地点。様々な問題のヒントや答えを、人類の原点でもある海の中に戻って考えてみよう、というコンセプトです。愛称は今まで通りAPIAでかまいません。
新しい名前 " APIA FORTY "も可愛がって下さい。

ホールの広さは現在の二倍弱。ステージを広くとったり(現在の二倍ぐらい)、弾き語り用に小さめにしたり、人数の多い編成やバンドにも対応出来るように可変ステージとなります。グランドピアノも導入パワーアップします。
演劇やダンス、映像など様々なジャンルに対応出来るようステージの場所も広さも変化します。
床はカリン材のフローリング、もちろん防音構造です。ステージ横には楽屋も設置。ホール内にPA・照明ブース、受付・BARカウンターと設置。ホール外には小さいけれどロビースペースもあります。
今まで使いにくかったトイレも、地下に女子用2個、中地下階に男子用3個を設置しました。
椅子は1925年アメリカで最初にスチール製フォールディングチェアを製造したクラリン社。フレームの両端を丸めた”ダブルロールドスチール”と、柔軟性のある”Xフレーム”により、他に類を見ない強度と耐久性を持ち、平らでない場所でも安定性を確保するという素晴らしい機能を持ったもの。その革新的なデザインと機能により、マディソンスクエアガーデンをはじめスタジアム、ホール、様々なパブリックスペースに於けるフォールディングチェアの代名詞と呼ぶべき存在となるものを使用。
テーブルは今、最も国内外問わずに注目されているバンド"envy"のドラマー、ダイロクさんの手作りテーブル。

【新しい所在地】
東京都目黒区碑文谷5-6-9サンワホームズB1
【アクセス】
---最寄り駅は学芸大学駅。渋谷より東急東横線で急行で2つ目、7分。日比谷線も通ってます。
乗り入れ、2012年には副都心線も乗り入れ東武東上線・西武池袋線から池袋・新宿・渋谷を
経て川崎・横浜までが一つの路線で結ばれる中間に位置する。駅より徒歩8分。
---山点線目黒駅からバス利用で10分位、碑文谷3丁目交番下車、徒歩1分。これは以外と便利。
5分おき位に出てるし、歩かないで済むので楽です。
---車でのアクセスは目黒通りと環七の交差する柿の木坂陸橋のすぐ近くです。碑文谷保健所
の信号を入って一つ目の信号の手前に大きな24hパーキングがあります。目黒方面から目黒
通りを来た場合は右折出来ないので、迂回路は地図を参照して下さい。
※下記地図をクリックすると拡大します。
 

【碑文谷の由来/ニューヨークからの手紙】
この奇妙で風変わりな地名を私が最初に知ったのはもう40年近く前の事だ。当時はまだ車の免許も持たず、東横線で元住吉から渋谷まで通っていた。
とこ
ろが、当時は大雨が降ると線路が冠水してすぐに電車が止まってしまう。あるいは労使の賃上げ交渉がなかなか妥結せず頻繁にストに突入して電車が止まってしまうのだ。
そんな時は自転車でロードレースのように飛ばしながら約一時間ほどかけて店を開けたのだ。台風だろうが熱があろうが二日酔いだろうが、、私が行かねば店が開かない、その日のステージに人生を賭けて臨んでいる人がいるか測り知れないのだから、1日たりとも休んだことはなかった。
多摩川を渡り、目黒通りをひた走り、柿の木坂を越えるとそこが碑文谷だった。曰わく因縁のありそうな、なんて変わった名前だ、というのが第一印象であった。
やがて車で通うようになってからも毎日碑文谷を通り過ぎて往復してきた。まさか、ここに移転することになるとは夢にもわなかったが。 この地の名前を一躍有名にしたのは山口百恵と三浦友和が結婚式を挙げた碑文谷サレジオ教会だ。
また海外からの観光客が買い物を楽しむ光景がテレビに映し出されるのが日本一の売り上げを誇るという碑文谷ダイエーだった。
今はニューヨークで暮らす友人のオレンとレイコが以前碑文谷に住んでいて、移転の話に感動して碑文谷の由来をメールで知らせてくれた。二人はアピアで結婚式を挙げたくらい大のアピアファンで、私がニューヨークを独りで旅した時も、観光では見られない場所を色々と案内してくれたのだ。
なんでも、レイコがバイクを走らせて碑文谷周辺を探検していた時、八幡神社にフラッと寄り、そこで目にした不思議な石に心を奪われてしまったそうです。それはインドの古代語であるサンスクリットを記した梵字のほられた黄色い碑文石で、それがとても魅力的な石で、その石(碑文)が祭られている事から碑文谷の名前の由来になったとか。
レイコは散歩がてらふらふらと石を見によく行ったという。不思議なことに、なんだか頭がすっきりして元気になったと、考え事もふっと解決する気がしてレイコにとっては特別な場所だったそうだ。
メールの最後にこう書かれていた。「あの不思議な場所にまたアピアができるっていうのがとても幸先がいい感じがします。アピアが渋谷からいなくなってしまうのはとてもさびしい思いがするけれど、新しい何かが始まるのだと思うとなんだかわくわくして、、、新しいさわやかな風、次はあそこから何かが発信されるのですね!遠いニューヨークから応援しています。 」
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