発行・ライブハウス/渋谷アピア
アコースティック情報誌 Vol.100 2005.7月号

特集/「あたふた」と歩んで100号来たり〜伊東哲男、1996-2005「あたふた」で見る10年、「幻滅から始まる志。ロックは三十路から!」チバ大三、「ありのままで生きていたら何を蹴っ飛ばすか分からない!!」吉田茉梨絵、「絵と詩」岩井由乃、「誌上ギャラリー」小池真司、「ヒマラヤの東端ブータンでホームステイ」伊東樹理、「KEEP ON〜伝説のオン・ザ・ロード自叙伝」南 正人、「ZAKIPPEのPAN日記」ZAKIPPE、「四コマ・マンガ」カルカンエコー、「田んぼ通信〜8年目の僕」REIKU、「桁違いの文章」青木研治、


あたふた100号記念増大号




特集・アピア35周年

ペルメージレコード
10周年


「あたふた」と歩んで100号来たり
アピアマスター伊東哲男

 「あたふた」を発行したのは1996年末、まだHPが普及していない頃で、やっとアコースティックな音楽が再評価され新たなムーブメントが起こり始めていた頃であった。まだ高価だったパソコンもなく、ワープロを駆使して文字を打ち、版下用紙に切り貼りしていく手作業が続いた。アピアが終わると本住吉のBAR「ピンクのぶた」に戻り、一杯?飲みながら原稿書いたり版下作ったり、飲み屋のテーブルの一角が編集部であった。印刷はコピー機で自分たちで刷った。「あたふた」の他にミチロウのFUN CLUB会報やチラシなどもこのやり方で作っていた。 僕が20歳の頃(60年代末)はミニコミブームというのがあって、政治・文化様々な同人誌が書店、スナック、レコード店、デパートなど、人が集まる所ならどこでも、置かせてもらえる所を捜して並んでいた。マスコミ(mas communication)、mas production、mas saleという経済成長の三種の神器に反発してのミニコミであった。ほとんどがタイプ印刷か謄写版で手刷りしたものだった。インクで手や顔を真っ黒に汚しながら作ったそんな経験からすると、ワープロでの作業ははるかに現代的なものだった。僕の持っていたのは上級機だったので、カルク機能が付いていてブッキングや経理、住所録管理からラベル印刷までこなした。ソフトは無かったのでカルクに関数を駆使して入力し、自分専用の使いやすいソフトを作りパソコンの基本機能ぐらいは使いこなしていた。そんな僕の作業を見て飲み屋のお客から、「マスター、パソコン入れるともっといろんな事が出来るよ」の声が上がるようになってきたが、最初は「イヤこれで十分!!」と結構意地はっていたのを憶えている。が、それもつかの間。CDを次々と出し、ホームページも作ろうという事になり、それではパソコンしかなかった。今ではデータ入稿でカラー印刷、レコーディングもパソコンだし「あたふた」編集部は川崎本社の自宅アパート、編集室は僕のパソコンデスクの上へと相成った次第である。
 「あたふた」を発行しようと思ったきっかけは、アピアで唄っていた岩永則親が仲間のミュージシャンたちとミニコミ誌を作ってライブで配っていたのを見た時である。あったかくてちょっと懐かしい気持ちの良いミニコミ誌であった。こんなものをアピアで活動するミュージシャンのためのもう一つの場として作りたいと思ったのだ。もう一つの理由は急速にデジタル化していく中で、アナログな媒体の持つ良さを見直しデジタルとの両輪として進めて行こうと考えたから。もう一つには、情報の問題があった。学生が始めた「ぴあ」はミニコミからマス化してライブ情報を独占?牛耳るようになった。ある日、アピアのスケジュール蘭が何の予告もなく突然カットされた。問いただすと若い編集者は渋谷エリアはLIVE HOUSEが増えキャパの多い店を優先すると。冗談じゃない!!長年載っていた蘭から姿を消したら誰もがアピアはつぶれたと思うだろうし客も来ないだろう。たかが「ぴあ」の一蘭から姿を消すことがこの世界から抹殺されることに繋がるこの関係。これは恐ろしいことだ。もともと「ぴあ」は情報を差別しないという方針で始めた。まだライブハウス蘭が出来て定着しない頃、締め切り日には編集部まで訪ね色々アイディアを出したりしてこの蘭を作り上げてきた。それが大資本の大型後続店が増えたからと言って簡単にカットする、これは社会問題だ、マスコミに訴えて問題提起するとブロぐれて再掲載させた。この経験から、自分たちの手で情報網を作らねばと、それが「あたふた」とインターネットを始め、ライブハウス情報誌「音泉Map 150」を出すきっかけともなったのである。
 「あたふた」の名前の由来は80年代のバンドブームに起因する。バブルがはじけ不景気が浸みてくると金と時間の掛かるバンドブームも下火になり、解散してソロになりアピアに出演する人が増えた。ところが決まって「あたふた」とする。バンドの時は、カッコよく動き回ってたのに、独りにになるとプレッシャーやら心細さやらであたふたと・・・。徒党を組まず、組織を頼らず、人は独りになると「あたふた」としているものだな。あたふたするな!!という否定面よりもむしろそれでいい、それが人間の正直な姿、あたふたしても自分なりのやり方で生きていこうと、そんな発想からの命名だった。
 今号の編集をしていて驚いたのはチバ大三の原稿の中の一節。「バンドブームなんて20年も前の話だから、全く知らない若者も多いんだろう」エっー、そーなのかァ、考えてみればソウなのだが、ショックだった。キノウとは思わないがオトトイぐらいの事と感じていたからだ。「あたふた」創刊したのがキノウの事のような一昔前、バンドブームはさらにその一昔前、アピア始めたのはさらにさらに一昔前で、僕が高校生の頃のグループサウンズブームは?、では大昔の事か!! 急に夢見るモチベーションを失って老け込んだ浦島太郎の気分である。体によくないぜ!! 右の年表を作成していても行間に滲み出るのはもっとやれたのにという自分の力の至らなさと、恥ばかり、最近は"マスターモ、オ爺チャンニナルノネ"と皆が笑顔で僕に老い打ちをかけてくるし・・・。そんなこんなで後ろを振り返るのは今回限りにしようとあらためて決意した日、であった。僕の座右の銘というサプリメントは、吉沢元治の「常に明日に向かってクリエイティブに突っ込んで生きる」である。死んでしまったら恥もかけないし、渋さ知らず、恥知らずでこれからも「あたふた」とやっていきます。あと一昔の間ヨロシク!!

1996〜2005「あたふた」で見る10年
1996

ペルメージレコードが発足したのが前年の1995年。南正人の「恋心」が第一弾であった。それに先立ち遠藤ミチロウのレーベル「北極バクテリア」を設立「50(Half)」を発売。そしてこの年、火取ゆき、牲 捜、青木マリの3人の女性シンガーが一斉にCDデビューを果たし、大きな話題を呼ぶ。遠藤ミチロウはこの年「愛と死を見つめて」発売。音楽祭の準備でタイを訪問。12月に「あたふた」創刊準備号を発行。穂積隆治他界する。

1997

1月ペルメージレコードより金沢栄東「EITOU BLUSE ALONE」を発売。同月、南正人の呼びかけに応じタイのチェンマイに於いてアジア音楽祭「いのちの祭り」を開催。アピアからも多くのミュージシャンが出演またスタッフとして参加。「北極バクテリア」より初のビデオ作品「GREEND」発売。9月には「道郎」を発売。遠藤ミチロウは全国100ヶ所「お百度参り、ツアー」。友川かずき・火取ゆき秋田市文化会館ホールでLIVE。

1998

アピア企画制作・遠藤ミチロウ著全国LIVE SPOT情報「音泉Map 150」を出版。佐渡島「ドンデン銀河コンサート」にアピア勢多数参加。第一回中津川ストリートフォークジャンボリーに協力参加アピアから多数出演。友川かずきデビュー25周年。牲捜BAND「VERY BERRY」を開始。アピアのホームページを立ち上げる。鬼海弘雄「INDIA写真展」開催。REIKUネパールへ。吉沢元治、音楽生活40年に幕を閉じ他界する。バリ島で正月。

1999

ペルメージ第6弾・火取ゆき「真昼の星空」、第7弾・吉沢元治追悼ビデオ「IT'S A DAY」、続いて井上博之「ほんのポリシー」、トイメンシャオ「君の夢の名前」を発売。石塚俊明音楽生活30周年記念「赤い夜」を発売。南 正人デビュー30周年記念「馬尾・馬尾」発売。新潟での無農薬・手植え「田んぼ」に参加。灰野敬二、須山公美子、佐藤道弘、Roonie Toons、等アピア初登場。REIKU、チベットを横断探検する。バリ島で正月。

2000

遠藤ミチロウ「北極バクテリア」より「OFF」「AIPA」(2枚組)を発売。ペルメージ第10弾、牲捜&VERY BERRY2枚組「EGOISTE」を発売。三上寛、音楽生活30周年記念BOX ALBUMを発売。ペルメージ第14弾・アコーディオンのオラン「NAKED ACCORDION」を発売。南正人「人生の楽屋裏」発売。REIKU、チベット競馬祭・雲南の少数民族の村を訪問など2回訪中。アピアの前身「東京キッドブラザース」の主催者東由多加が他界。

2001

アピア大改装、ホール・BARを新設、新生アピアSTART。REIKU、茉梨絵、由乃ら新しいスタッフが参加。VERY BERRYがネットLIVE選手権でグランプリ受賞。ペルメージより石塚俊明「0番ホーム」、飯浜ゆきこ「キオクの果実」発売。北極バクテリアよりTHE STALIN復活LIVEビデオ「吐き気がするほどロマンチックだぜ!」発売。遠藤ミチロウ全国200ツアーを達成。CD BOOK全歌詞集を発売。REIKU、中国・チベットの年越しツアー。

2002

タイのチェンマイに於いて第2回「いのちの祭り」を開催。アピアからも多くのミュージシャンが出演またスタッフとして参加。メーサイの山岳民族の子供たちの学校でLIVE。北極バクテリアより「ベトナム伝説」再発。遠藤ミチロウアピアにて中村達也、梅津和時、石塚俊明、永畑雅人等を迎え6夜連続LIVEを決行。友川かずきCD「顕信の一撃」、BOOK「顕信読本」を同時発売。茉梨絵ニューヨークへ。アピアママ病床に伏す。

2003

2月8日33年間アピアを支えてきたママ他界する。葬儀そして追悼ライブには全国から多くの方が集まり見送られる。ペルメージよりみだれ髪「川崎ひとりぼっち」発売。友川かずき30周年記念BOX 発売。STALIN写真集、遠藤ミチロウ写真集「我自由丸」を発売。伊藤多喜雄NHK紅白に出演。「あたふた」カラー印刷となる。ママの好きだったバリ島で散骨。美容室「波照間」開店。30年続いた「ピンクのぶた」閉店。常連のクマさんも他界する。

2004

タイ山岳民族の学校にアピアでのカンパを届けに訪問、交流ライブを行う。ペルメージより南正人「Songs」、SESOのCD+DVD「空走ルーレット」を発売。友川かずき映画「IZO」に音楽と出演、アピアLIVE DVD「ピストル」を発売。「北極バクテリア」より「NOTALIN'S」を発売。チバ大三「激情劇場」、福島泰樹アピアLIVE CD「帝都慕情」を発売。三上寛フランスツアー。鬼海弘雄「PERSONA」土門拳賞受賞。Pro tools導入によるCD制作開始。

2005

ペルメージレコード10周年、アピア35周年を迎える。ペルメージより記念アルバムとして竹内紀「夜のベンチ」、長谷志恩「登校拒否児」の2枚を発売。同じく10周年を迎えた「北極バクテリア」からは遠藤ミチロウの「I.My.Me-AMAMI」を発売。REIKUと樹理が結婚、ブータンを旅行する。「あたふた」100号記念増大号を発行。

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