発行・ライブハウス/渋谷アピア
アコースティック情報誌 Vol.111 2006.6月号
「北南(ほくなん)の彼方からやって来たい人たち」
北南広報部代表 増田‐羽客‐敬祐

北南 写真左から 峡谷口‐尻目(Gt)、増田‐羽客‐敬祐(Gt.Vo)、Verve上山(Dr)、中山マーサミ(Ba)

6/18(日)、7/5(水) アピアLIVE!!

 俳人であり画家でもある文人、与謝蕪村は『春泥句集』序で「俗を用いて俗を離れ、俗を離れて俗を用いる」という「離俗論」を展開している。北南(ほくなん)の方角に佇む我等が北南(ほくなん)は「よさぶそん会」という字も時に名乗る。まさしく蕪村の上記の考えに共鳴するからだ。生活これ日常、素晴らしく、美しく、儚く、醜悪、俗塵にまみれ、移ろいながら形容をそこに留めない。この生活日常を描き出し、形作るためには人間(じんかん)という枠を抜け出さなければなりますまい。
真理の芸術がその存在意義を主張できるのは日常の外に出で、そこから日常を描いているから。俗にまみれて場末を詠うことがまことの芸術だと標榜する吟遊詩人の方も世界には多数無数におられるが、三軒両隣の感情は熱しやすく、冷めやすい。私たち市井を鮮やかに清新に生きたいと願う者にとって半径三メートルの喜怒哀楽を描いているだけの作品では物足りない。日常の外部から私たちを描いた作品に対峙したときにこそ私たちは己を知ることができる。なぜならそれらの作品は日常という流砂のなかで取捨されているものの全貌を照射し、突きつけてくるから。そのとき私たちは自分の置かれている状況を相対化し、現状を知ることができる。芸術は大衆の中でそのように生きながらえてきた。
蕪村にあやかり我等が北南(ほくなん)もそのような作品の製作を希求する。文人行人四人衆、北南(ほくなん)は万巻の書を読み、万里の道を行かなければならない。真理の探究に精進するのだよ。そして巧妙に凄みを増し、新たな市場を求め徘徊する貪婪人間(ドンランニンゲン)の際限のない不安の上塗りと虚栄の再構築が東奔西走しているのを酔吟独楽で楼閣の上から眺望するのだ。
付記 
芸術が描き出さなければならない生活の根源が根こそぎ商品化し独占の対象になっている。私たちは自らがコントロールできる場所に生活を取り戻さなければならない。これから創造される真理の芸術は、その意識の回復に作用するものとなるだろう。
文化で抵抗する。文化は抵抗する。文化が抵抗する。文化に抵抗する。

参考文献 『ジャン・クリストフ』ロマン・ローラン/『アーティスト・ジャパン 曾我蕭白』新集社編/
『ぼくとフリオと校庭で』(収録「流砂」)『夢みる機械』諸星大二郎/『公害原論』『キミよ、歩いて考えろ』宇井純/

北南ブログ http://blog62.fc2.com/hokunan/?style=Marriage


「混ざらないモノを混ぜたい」

チャキッ娘 木枝 達哉


 チャキッ娘で表現したいことは、矛盾するような二つのものを調和させることです。体育座りしながら踊れるような曲を作りたいです。矛盾するものが調和するとき、1つの真理が見つかるものです。一種のアウフヘーベンを音楽で表現しようとしているのかも知れません。そういった真理は矛盾に覆われて見えないだけで身近にあるものだと思います。だから時に僕たちは笑って悲しい歌を歌うのです。誰も思いつかないような食材の組み合わせでおいしい料理が出来ることがあります。時にゲテモノ料理のように不快にさせるかもしれませんが、これからも創作活動を続けて行きたいです。そこにポップミュージックを超えるポップミュージックがあることを信じて、、、



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