発行・ライブハウス/渋谷アピア
アコースティック情報誌
Vol.131 2008.2月号
飲みすぎ・聴きすぎ・歌いすぎ
稲垣慎也のアピア07−08年越しオールナイトライブレポート
アピアは大晦日が一番面白い。誰か面白い”うたうたい”はいないか。そう思うならきっと足を運ぶべきだ。
長谷志恩が歌いだそうとするその時、ようやく腰を下ろすことができた私。一曲目のストロークに入る。弦が切れる。大晦日、最初の炎を灯すのは困難を極める。私は十年以上前に彼とライブをしたことがある。その時の感触が甦る。長谷君の歌の聴きざわりも思い起こされるが、同時に己の記憶もぶり返す。人の歌を聴くということは結局は自分の声に耳を澄ますことでもあるのだから困る。
天狗の里は初見だ。天狗というからには悪辣強欲狷介傲慢な歌を歌うのかと思いきやすかしてきた。里は清浄。桃源郷。天狗で住職。魔物であり聖なるものでもある。矛盾する存在。私が天狗なら遊んで暮らす。が、住職はお節介で人が気になる。住職だから高い倫理を持っているのか。あるいは天狗のくせに生身の女に恋したか。と勘繰ってみる。彼は朝まで天狗の面を掛けていた。虚構のまま客席にいた。
田中真紀子のCDを持っている。「反戦」が重大なモチーフであることには疑う余地も無いが、同時に人間が戦争でしか味わえない高揚感をも表現してしまっているとも思う。私は田中真紀子の肉声に触れるたびにそのことを思い、戦慄するのだった。この日の彼女は風邪気味で本調子ではなかったが、それでも大いに胸に響いた。掠れたファルセットも声にならない声のようで、その空白に耳を澄ませた。
河内伴理の歌には風景があった。田園。草原。花畑。平和な時間に狂気を蓄える。譜面には記せない危ういトーンを繋ぐ。好青年なのに井戸の奥から虫が湧く。「虫が好く」「疳の虫」の虫だが、これがどうしても駆除できない。それがそもそも自然だからか。風景が自然であるならば人間もまた自然に帰するか。強盗、殺人、人さらいはもはや必然か。
アサダマオは初見。彼女の歌はロードムービー。物語を読むように歌う彼女をいささか安心して眺めていると、突然、客席に美しい眼光を放つ。覗いているつもりが「オレ、ひょっとして覗かれてない?」と凍りつく。声自体にデカダンスがある。ロバート・ジョンソンが浮かぶ。声に二つの人格あり。語りは少年、歌は母。一人称は俺・僕・私と自由自在。素晴らしい。
火取ゆき・石塚俊明・小池真司は最初からタコメーターが振り切れていた。それは舞台にあらかじめ用意されていた。濃密な磁場が生まれる。歌が意図を超えていく。涙が溢れる。理由など本人も知らない。目撃する自分は何に導かれたか。どこをどう辿って魔窟に来たか。自分がこの音に出会うということは何事なのか。と問いたくなる。
南正人のライブで私は小休止を取る。外でモニター鑑賞。四人編成。ギターは長年の朋友、萩原信義ではなく、若手北沢幸介を起用。萩原がいたころのルーズさは息を潜め、タイトで安定感のあるグルーブ。
遠藤ミチロウ登場。ギャラリーが埋まる。早朝から起きていた私は睡魔。子守唄とは程遠いミチロウの叫びを至近距離で聴く。「1985・SEX・オデッセイ」「1999」など、年号を変えれば年越しにふさわしい歌。「カノン」は子守唄。ついに爆睡。「天国の扉」で目が覚めると眼前で松葉杖を抱えた男が泥酔、花道に座り込んでいる。ミチロウにからむ酔っ払い。空気が困惑している。しかし同時にもっとも年越しにふさわしい雑多さ、猥雑さを感じた瞬間でもあった。
牲捜が歌う。ミチロウの時も思ったのだが、昔の歌を歌い続けている。その途方もない反復によって歌は熟す。新しい歌が聴きたいとは思う。そのため名曲「灰になる」を熱唱し封印した。私の友人に彼女のファンがいるが恥ずかしくてライブに行けないと言っていた。されど行くがよろしい。友達よ、勇気を出せ!
ホーミータイツは三人組。初見。しめ縄を被り、お揃いの法被を着ている。MCが面白い。元気なステージでありつつ、「空元気」だとはぐらかす。ミチロウには負けないぞと言いつつ、「ミチロウのピック拾った」と喜んでみせる。一人で歌唱する私からすると、三人組の社会性はむしろ新鮮で、必然的に歌詞の内容も外を向く。温かいディナーを取り分けるように歌が優しい。
ON氏も初見。一人ハードコアとでも呼びたい。ギターも肉声も最大値のまま。ともすればへばったり、舌がもつれたりしがちであろうが、もともとの基礎体力がしっかりしているのだろう。懸念は杞憂。歌に独特の質感。歌のベクトルぶれずに直線的に放射。詩世界が豊穣。キャリアの少なさも良いほうに出ていたのではないか。お見事。
ろみは練習しないそうだ。ギターを弾くと吐きそうになるとも。その分、カタストロフィが現実味を帯びる。等身大の「私」が出現する。ろみの「人間失格劇場」だ。が、表現である以上、虚構でもある。虚構と現実の継ぎ目が見事なまでに隠蔽されてる。もう駄目だ。救いがないと諦観。このまま墜落か。しかし「ありがとうございました」と真っ当に礼をする彼女に引き返すことを許される。助かった。
大トリはチバ大三。十年間も年越しの最後を締めてきたのだ。総括的な表現ができるのは才能だろう。おかしいぞ。さっきまで寝てたんじゃなかったのか。なのに総括できるのか。とどめは「アピアママ」。「歌に体重乗っけてごらんなさい」とはママさんの口癖だった。本当に「体重」という言葉しかなかったのか。もっといい言葉はなかったのか。なかったのだろう。そのくらい「体重」は難しい。
聴き終わって渋谷駅のプラットホームに立ちすくむ。また一年が始まる。人の声を聞くことは己自身に耳を澄ますことでもある。そうでなくては歌い続ける友に非礼ではないか。結局私の手にもマイクロフォンはしっかりと握られているのであった。
どらねこ屋
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