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「硫黄島302」
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小池真司
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地獄色の肉桂をくわえて
娘が背後から開かれる夏
硫黄島の人知れずうち捨てられた骨壷に海
面上昇によって水が入る
六十数年ぶりに海水と混じりあう骨粉の
微かなざわめきに
生まれ変わりの熱帯の蝶たちが物憂く羽ばたく
空は深々と蒼く海はなお穏やかであり
人影は無い
永遠に投降を呼びかけるこだまが
潮騒と混じりあう
此処では虫さえがいのち乞いをする
俺達は小便を漏らしたまま滅びてゆく
何の作戦も無く 何の勝算も無く
海水を呼び込むための蛸壺で投降の誘惑に
悶えながら
ついフラフラと両手を挙げて
降りて行った者は還らない
幸福は擂り鉢山の奥深く退き
補給も無く 弾丸も無く 戦争も無く
突撃も無く ただ死んでゆく何という惨めさ
いやらしさ
皇軍の亡霊が後ろから歩み寄り一人ずつ俺
たち鬼畜の首をはねてゆく
その前に俺はあの娘とやっておきたいと願う
思い残すことは?
何も!何もありません!
股間が温かく濡れ俺は犬よりも純粋に射精する
二つの白い尻の塹壕に深く息をひそめる晩夏
グランド・クロス硫黄島302号室は歓落する
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「人生ひとりずもう」小金沢司
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思春期と言うか小中高の学生時代というのは、ビーフハート船長ではないですが、誰でも自分の中に棲んでいる怪物に振り回されるもので、僕も10代の日々の一から十までがその怪物とどう付き合っていくか、どうコントロールするかに終始していたと言っても過言でないです。
その怪物との戦いをひとりずもうと僕は呼んでいます。
そして20代になってみて、ようやくその怪物がおとなしくなったと言うか、操れるようになったつもりになっていたのですが、それは全くの勘違いで、その怪物はおとなしくなったわけでも、ましてや自分がコントロールできる器に成長したわけでもなく、ふと気づくといつの間にか怪物を殺してしまっていたりするのです。
あれ?ひとりずもうどころか、自分すらも相手にしてくれてないじゃん。
これシャドーボクシングじゃん!! と言う具合です。
いや、厳密に言えば自分が生きてる限り怪物も死んでいるわけではなく、姿かたちを変えて生き続けているわけですが。
世間の風潮としてこの怪物の死、もとい変化を悲しむ人々がいると思うのですが、いま僕は全くそんなことも無く、これからどうやってまたこの姿の違う怪物とお付き合いしていくか、楽しみに考えています。30代になる頃にはかなり素敵な怪物になっていると思うのです。この怪物と死ぬまで向き合っていること、それが僕の人生の誓いであり
人生ひとりずもうである。という考えの所以なのです。
ちなみにこれは全くの蛇足になってしまいますが、ここで僕の言う「怪物」とは稚拙な表現ですがつまり「裸の自分」のことです。裸の自分と言うのは、物欲、自己顕示欲、ああしたいこうなりたい何もしたくないなどの「ありとあらゆる欲望」や、願望希望、不満絶望、期待不安、自尊心嫉妬、など「ありとあらゆる感情、衝動」から、ああしなきゃいけないこうしてはいけないなにでいなければならない、こうならなければいけないといった「ありとあらゆる抑制を取っ払った状態」の自分のことです。
だからその姿はとてもとげとげしく幼稚で、とても個性的で強引で繊細で、とても美しくも醜くい「怪物」の姿をしているのです。
その「裸の自分である怪物」と、「ありとあらゆる抑制の中の現実に生きている自分」との戦い。というわけです。
Too hard to handleです。
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