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高校へ通うために初めて村を出たぼくは、弘前という城下町で下宿生活をおくることになった。同じクラスになったT君の家は「松乃井」という日本酒の蔵元であった。その作り酒屋の屋根裏部屋で、高田渡さんの「石」、「系図」といった初期のアルバムを聴いていた。「冬の夜大きな白い人が走る、それはパイプくわえた雪だるま、寒さに追われる大きな雪だるま」という出だしで始まる曲はジャック・プレヴェールという人の作詞ではあったけれど、渡さんの野太い声に妙にマッチした唄であった。その頃、ぼくは小説にも没頭していて、同じ郷土出身の太宰治をはじめ、大江健三郎,安岡章太郎らの作品、カミュ、カフカそしてロシア文学に心を奪われた、いわゆる文学少年であったけれど、「他の教科は全部丁であったばって、唱歌だけは甲であった」という祖母と「五能線の村田英雄」を自称した父の遺伝的系譜につらなるかのように、唄というものに特別の関心を持っていたのだ。そして酒蔵の同じ部屋で、シバ、中川五郎、そして加川良といった人たちの唄を聴き、何か新しいものの到来を感じて、この世界にもう一つ別の何かを付け加える手段として、文学表現以外のものもあることを教えられたのであった。
1973年の早春、大学受験という名目のもとに、ぼくは初めて津軽の土地を離れ、上京した。夜行列車「津軽2号」で12時間自由席に揺られると、くたくたになって上野駅に着いた。乗り換えのホームに立っていると、まるで手塚ワールドのように次から次へと電車がやってくるのであった。ローカル線しか走らない土地に育った田舎者にとっては、それは一つの驚異であった。
東京、そこはついこの前、自衛隊員をまえに演説をしたあと、自ら割腹自殺をやり遂げた作家が棲息していたり、革命の展望が見えず、人質をかかえて山荘に立てこもった五月革命の亜流者たちに向けて、放水と、クレーン車による鉄球のふりこ攻撃をしかける政府の総本山があったりする都会であった。何も革命の挫折者たちを揶揄しようというわけでは、もちろんない。テレビ画面にそれらが映し出される時代がかつてあったというにすぎない。けれどもぼくにとって東京は隣近所の親爺たちが出稼ぎに行く場所であった。だから渡さんの「出稼ぎの唄」や「鉄夫の祈り」を生で聴く事のできるライブハウスを目指したのだ。吉祥寺駅を降り、左手に折れると、右手に戦後から続いているハーモニカ横丁がある。後年のことだけれど、横丁の通りに面したところに玉子屋があって、一時期カメラに凝っていたという渡さんがそこのおばあさんを写した白黒の写真を見せてもらったことがある。それは玄人はだしの腕前を彷彿とさせるもので、時代と彼女の日常を切り取った含蓄のある写真であった。横丁を横目で見ながら交差点を渡り、歩道を右に進んで、東急百貨店の前を左に折れて、5分ほど歩くと目指すビルが右手に見えてくる。そのビルの階段は傾斜角度50度もあろうかという急斜面でちょっと油断すると、帰りに痛い目に遭うことになる。武蔵野火薬庫・ぐゎらん堂(伽藍堂)、その木戸を引くと、隠れ家の匂いがぷんぷんする空間がそこにはあった。
入ってすぐ右手には3坪ほどの厨房とミキサー室があり、一角にLPレコードがぎっしりつまっていた。ライブのない日は聴きたい曲をリクエストすると片面全部が聴けるのだった。ぼくが行った頃は、マスターは村瀬雅美さんで、伴侶の美絵さんと店をきりもりしていた。村瀬さんは、あの武蔵野タンポポ団のベーシストであった。30人ほど入ると満杯になるスペースではあったけれど、そこにはミュージシャンはもとより、絵画、小説、演劇、漫画、ジャンルを問わず、何か表現せざるをえない魂をかかえた人たちが自然と足を運んでしまう、不思議な魅力が漂う場所であった。ある夜のこと、店は若者たちで埋め尽くされた。夜も更けたころ、「渡さんだ!」という誰かの声が、店のいちばん奥にいたぼくの耳に聞こえてきた。よほど機嫌がよかったのか、その日渡さんは、みんなにせがまれて、「生活の柄」を唄ったのだ。ぼくは単なるミーハーだったにすぎないが、その夜から何か違う世界に足を踏み入れたような気がした。店のちょうど真ん中あたりの天井に1枚の煤けた色紙が貼ってあったのを記憶している。それはあの大陸的なスケールの放浪詩人金子光晴のおおらかな筆跡による、「ぱんぱんは そばの誰彼を 食ってしまいそうな欠伸をする。この欠伸ほどふかい穴を 日本では、みたことがない。 人間の悲劇 より」というものであった。ぐゎらん堂の煤けた天井には戦後を象徴する言葉が刻まれていたのである。(第一話・終)
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アピアがSPACE LAB HAIRとしてスタートしたのが1970年3月。その年の11月25日劇場よりも劇的なニュースが日本中を駆けめぐった。その日アピアでは芝居の初日。三島、自衛隊に立てこもり割腹自殺のニュースに、どんな虚構もその現実を突き崩せずウソっぽくなってしまった。
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市ヶ谷の自衛隊員に向かって激しい演説をする三島由紀夫。このあと自決。
当時の週刊誌より |
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1969年11月3日「盾の会」1周年記念パレードが国立劇場で行われた時の隊長・三島由紀夫の勇姿。
当時の週刊誌より |
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