発行・ライブハウス/渋谷アピア
アコースティック情報誌 Vol.132 2008.3月号

クリスマス・ホスピタル
安野 玄理 / 4月14日(月) アピアライブ

 これが最小の被害というのは真実だったのだろうか?必要悪を集積したように生息するブラックボックス・東京は、「飛べば確実」という高度が保証されて屹立していた。もはや遊休地は空しか残されていなかったから、より高かった。隣人の顔色を見下ろせるようにより高かった。道徳の帰属意識は隠蔽してより海の底だった。商品の固有性は冷凍してより安全だった。
 都市計画法の理念が誤解されたのか、そもそも法そのものが誤解だったのか、条文にモザイク処理が施されていたのか、文化の捨象の手口は鮮やかだった。
 その永遠の再開発地の赤線と青線の外側に、隔離されたように病院は逆立ちしていた。ツリーは生えていなかった。そこに運び込まれるのは血の色した包帯に巻かれた急患くらいで、赤いリボンに包装されたプレゼントのための搬入口は見当たらなかった。
 待合室の景色を全てファインダーに収め終え、時間が平坦になった頃、名前を呼ばれた。診察室に入り寝台に横になると、枕元に異国の童話から飛び出てきたような、紙で作られたピアノが置かれていた。それは精神安定剤のような白壁より不動で、安楽を模した白衣より長閑にあった。鍵盤は全てが白鍵であるため、明日へ傾く生の連なりのようであったが、皮膚を貫いたのは死と生き、生と死ぬという境界のない針の感覚だった。死は生の派生音ではなく、生も死も幹音であるということか。
 眺め続けた天井は、生命体が地球に存在する事を忘れさせてくれるに十分無色だったが、意識を与えることのできる対象として7オクターヴと3音という音域が辛うじて並んでいた。
 医師の当てた聴診器は冷たかった。それは物質的な冷たさとして完結していたが、それを握る手は依然として人の世と繋がっていた。医師はそれで何を診たのだろうか?きっと聴覚によって受け止められる類のものではなかったろう。
 「適応」という麻酔によって消失した感受性の全休符か。「願望充足」という麻薬によって刺激された欲望の全音符か。「美しい消費」という教義によって植民地化された理念の終止符か。「自己憐憫」という被害者意識によって通俗化された愉快犯の免罪符か。「中庸な掌の水」「影を後ろ見する光」「生まれながらを自在に応じる空気」という絶対的真理を秘めた各々の稜線を結ぶ夢想の3連符か。
 カルテにはどのように記されていたのだろうか?無音の生命の縮図を装った楽譜が。コンピューター・プログラムの具体化ではなく、渦巻く大脳中の精神活動の混沌とした世界の抽象化でしかない楽譜が。
 処方箋は必要なかった。
 楽譜を、宇宙を伝う過程に乗せるために病院を出た。黄砂が空に舞っていた。聖歌が、自然を必死に模倣しようとする聖夜に意味を加えていた。電飾もそれに美しく荷担していた。しかし、「木」に結わえられた意味とは?雪は空で待っていた。殆ど空虚であるとされる宇宙に存在する生命と物質。これの代わりがないと知りながら、空虚という意味に、生まれたばかりの地球を重ねた。
 病院に「置き忘れた」と思った紙のピアノを急いで取りに戻った。

『初恋』 kiyotaka
4月26日(土)アピアライブ

初めての恋は、幼稚園の頃。誕生日会で好きな女の子とbed-inするっていうゲームをした。オイラの好きな子って一体誰だ!分からないなりに答えるもの。そんな記憶。

岡山〜広島〜東京〜岡山と生まれ育ち仕事して、放浪し、初めての地に降り立った・・・、大阪。何かを始めなきゃ。新しい仲間や恋人も出来るかもしれない、なんて淡い想いを少しは抱き、広い世界に独りこっち。仲間の結婚式にはどんな顔して行くんだいって、ささやかな物想い。
好きで写真をやっている。ある日、「何かを撮ること」に許可はいるのかって頭、掻き毟る。だったら自分を撮ればいいじゃないのってセルフポートレートを始めた。手始めに部屋でパチリパチリとセミヌードに近いものを撮ってはみるが、是がつまらない。そんな折、練習を始めた。結婚式二次会で披露するオリジナルソングの練習。ギター片手に街頭に立つ。ピリリときた。この感じに恋をした。初恋、これかも。是を撮ってみては・・・。だって人前で歌っているオイラ、兎にも角にもドキドキしているから・・・、そんなオイラを撮れば面白いんじゃないか。しかし近代技術の盲点・人体の神秘がここにあって、ギターを爪弾く己を撮ろうとすると、足くらいしか使えない。無理矢理、三脚付きセルフタイマー+リモートコントロール用コードを駆使して歌い始め撮り始めるものの、結局は歌も撮影も途切れ途切れキッコンバッタンキッコンバッタン。動く唇、歌詞をひろいあげてくる脳みそと弦を爪弾く指先、それら全てに指令を出す意識、謳いあげるオイラ全身全霊、シャッターチャンスを伺うオイラ全身全霊、てんでばらばら、キッコンバッタンキッコンバッタン。聖徳太子でもなきゃ、そんなの全部できないよ。うー、なかなか難しい。写真家と歌唄いがなんと同時的に行えないことか!ポーズ構えながら歌ってしまうって、なんだか口をパクパクさせながらマネキンみたいに写真の枠に固く入って歌っているよう。
カメラがこちらを向いているからそんなことになるのか!

それは悩みというよりは人体の不思議、歌の不思議であり、少し楽しくもある。とにかく、やってみよう、キッコンバッタンしてみよう。初めての角度、鏡では見れない角度のオイラに出会えるから。続けよう。格好つけて、Love-myownの二足歩行を続けようじゃないか。

毎度、おなじみの

どらねこ屋

でございます

四月のライブは六日

日曜日の二時からでございます


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